Itadakizen

Disponible uniquement sur Etudier
  • Pages : 3 (541 mots )
  • Téléchargement(s) : 0
  • Publié le : 12 septembre 2010
Lire le document complet
Aperçu du document
いただき繕の道(1)

いただき繕の教えの究極的な目標は、人間が真の自分自身とも言える、真心=モトマム (moto-mam)と真体=モトモム(moto-mom)を体知することである。真心=モトマム (moto-mam)と真体=モトモム(moto-mom)とは、考える自分と考えられる自分とが一体となった時(時間と空間が存在しなくなった時)、言い換えれば、すべての思考が止った状態のみに顕れる、本然の自分自身の姿である(実際は自分自身という意識さえ消えた状態であるが…)。真心と真体の体知とは、完全な自由と平和、そして無限な慈悲に満ちた至福の境涯に入っている状態を指す。

殆どの人々が自分自身と考える現存態は、本当の自分ではなく、借心・借体という違う実存体である。つまり本当の自分とは関係ない存在である。

「いただき繕」における本当の自分とは、真心・真体のまま、つまり借心・借体と無縁な状態として現れる自分である。
借心・借体は本来のあなたではない。それは本当の自分(真心・真体)が招待した他の存在たち(他の命の集合体)の総合意識であり、総合構成体である。借心=カリマム(kari-mam)と借体=カリモム(kari-mom)は、今・ここを生きる、つまり生きている自覚(すべての意識活動)と、その自覚を感覚的に体得する受容体を指す。人間の認識能力・意識活動(特に自我意識)は、この借心・借体があって始めて可能である。言い換えれば、借心・借体とは底知らない人間の苦悩の総体的な現存態である。
しかし真の自分自身とも言える、超時間・超空間の真心・真体は、借心・借体(元来の巡心・巡体が目覚めて働く時の借心・借体)を通してのみ時間と空間に顕れる。借心・借体なしに真心・真体を体知できないという真実を悟ると、さまざまな煩悩の源となっている借心・借体も尊い存在であることが分かる。どうして人間は、さまざまな煩悩の源となっている借心・借体を持って、この世に生まれるのか。それは貴方が無限な慈悲の心に満ちた万物の霊長(主)であるからだ。
つまり他の“いのち”を人間と同じ境地に導くために貴方は食べ物の名で“いのち”を招待(いただき)し、万難の苦海を共に歩もうと決意したからだ。

その真実を体知する瞬間、人間存在の神秘の扉が開かれるだろう。 その真実を体知する瞬間、貴方は“いのち”を導く万物の師、万物の親となる。
その真実をどう体知できるか、そのために何を実践して行くべきか、という具体的な目的意識を持つ人々の学びの場、実践の場が農哲学院である。

人々は社会的な弱者を助けたい、貧しい人を助けたいと言う。その心は良いことである。しかし社会的な弱者を助けたい、貧しい人を助けたいと言う前に、人間には、まず優先的にやるべき課題がある。まず自分自身を助けることだ!
なぜ人間(自分自身を含めて)は、さまざまな煩悩の源となっている借心・借体を持って、この世に生まれるのか、その根本的な問いに対する答えを体知することだ!

それを体知できない状態で他人を助けるという思いは、傲慢の心から来る一つの幻想と言える。それは身のほどを知らない無知の結果である。それを体知できた状態では、すでに他を助けるという意識さえ存在しない、日々の生活自体が他を助ける行いであるからだ。

しかも人間は、それを体知できるなら、何よりも自分自身が体知した、この世界を他の人も体験できるように導きたいという一念となる。同時に、この世の出来事(時間と空間の中での事)が無限の時間からするとほんの一瞬にすぎないこと、その故に最も優先するべきことが自然にわかるようになる。もし人間が人間を助ける(いただき繕では当たり前のことで、すでに死語であるが)という表現が必要なら、「人間とは人間以外の“いのち”を人間(真心・真体)の境涯に導く貴い存在である」という真実を人々が気づくように手伝う場合だけであろう。
その中で、社会的な弱者、病気の人もいるだろう。自分が手伝う相手を最初から社会的な弱者、病気の人などと限定する必要はないという意味である。

借心・借体のままの自分自身が人を助けるという意識は錯覚にすぎない。
それは善意であっても途中で躓く。裏きり、恩知らず、など言葉が何時も人間社会から消えない所以だ。
まず自分が背負う能力の範囲から(自分が体知したこと)やりなさい!いただき繕の道(2)...
tracking img